クオリアといろいろ

クオリアの話を読んでいると,クオリアのような主観的なことがらを科学的に検証するのは難しいなーと感じます。クオリアに限ったわけではないけど。脳科学自体がけっこう「一人の脳活動」に頼っているところもあるし。例えば百万人に一人くらいしか発症しない病気の人を多数集めることは難しい。それに一人一人の脳ってちょっとずつ違うしね(そうでなければ僕とあなたは同じ人になってしまう!)。

僕の意識,みたいなすごく主観的なことをどのように客観的な科学の方法論に載せることができるのか?なんか問いそれ自体が矛盾してそうな問いですが。主観的科学とでも言えばいいんでしょうか。主観的なものごとをどのように精度高く検証できるかということですね。ま,もともと物理学ですら帰納的という頼りない方法でしか新しい事実を発見検証することはできないので,どちらにしろ「どれだけ精度高く」事実であるかを検証できるか,という意味では違いはないともいえます。ただ再現性に乏しく頼りなさ過ぎるので,それをどれだけ補っていけるか。それが脳科学の方法論として重要なことがらのような気がします。

少ない情報からどうやって帰納的にモデル化ができるのか?広く考えてみれば,今の僕たちの社会は急速に変化していますから,時間的に短い間で得られる情報量も少なく,そのような中でどのように重要な事実を発見していけるのか,というのはビジネスシーンや国際外交なんかでも重要なのかな。そう考えると幼児が比較的少ない言語情報から第一言語を正確に獲得するさまなんかは,帰納的なモデル化の素晴らしい例だとも捉えられます。適応の速度をはやめるには言語獲得装置みたいなハードワイヤードな部分が重要?

それから備忘録のために某所に書いたコメントをコピー:思考の『「もやもや」というのは結局クオリアに帰着されるのかなーと思います。それに,言葉を使って思考していたとしても,一つ一つの言葉って実はもやもやしているものなので(cf. ソシュールのいう体系),やっぱしクオリアなんだろうと。多分昔から同じことを考えてた人はたくさんいたと思いますが,21世紀の僕たちはその概念に「クオリア」という脳科学をベースとした地に根ざした言葉を得たのではないでしょうか。』

脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』でも読もうかな。『クオリア入門―心が脳を感じるとき (ちくま学芸文庫)』の方が先か。