「命の価値」について (1)

募金という名の保険システム - deq blogで書いた以下のことにまつわるエントリです。

病気を持った子供を産み育てるというのは犠牲を払わねばならない罪ではないと思うので。

考えがまとまっているわけではありませんが,これに関わる考えを書き出してみたいと思います。おそらく,僕がこれから書きたいのは「人の命の価値」とかいうものと「よい社会を作るにはどうすればいいか」というものの関係についてだと思うのですが,今のところまだ何ともいえません。

おそらく以下のような問いに対して答えを出したいのだと思います。よかったら皆さんもお付き合いください。

大人と子供の命の価値は同じなのか?死にゆく老人とこれからを生きる青年の命の価値は同じなのか?障碍者と健常者の命の価値は同じなのか?あなたとわたしの命の価値は同じなのか?

3人の子供のうち2人の命のみを救うことができるとして,誰と誰を助けるべきなのか,あるいは誰も助けないべきか?ホームレスの乞食は税金を使って助けた方がいいのか,見殺しにした方がいいのか?犯罪者は殺してもよいのか?10歳までしか生きられないと分かっている子供を助けるのは無意味じゃないのか?

今までのことに対して,個人としてではなく,日本としてどうあるべきなのか?僕たちはどういう社会に住みたいのか?僕たちはどういう社会を作っていきたいのか?僕たちの子供はどういう社会に育てば幸せなんだろうか?

1. 価値

まず,本論に入る前の下準備。あるものの価値を value(A) という関数で表すとします。例えば佐藤くんの価値は value(佐藤くん) と書けます。では,その値を求めてみることにしましょう――はて,どうやって?いきなり行き詰まりです。佐藤くんの価値はいくらでしょうか。それはどうやって定義できるのでしょう?

ある宝石があったとして,その価値 value(その宝石) は何でしょうか。10万円で売っているから,10万円でしょうか。まぁ,納得できます。手に入りにくいレア切手があったとして,その価値 value(そのレア切手) は何でしょうか。オークションに出したら1万円で売れるから1万円でしょうか。でも,切手収集家以外の人には価値がなさそうです。僕が持ってもきっと捨てるかあげるか売り払うだけでしょう。人によってレア切手の価値が違うような気がします。僕の愛する人の価値は僕にとっては無限大のようなものですが,世の中には彼女の存在すら知らない人もたくさんいて,そのたくさんの人にとって僕の愛する人のことはそれほど大切だとは思えません。喜ばしいことに。

なるほど,価値というのは相対的なものなのかもしれません。つまり「誰かにとっての」価値というものがありえるわけですね。数学には条件付確率とかいうものを表すのに P(B | A) という記法がありますから,その記法を借りて,あるもの A にとってのあるもの B の価値を value(B | A) と表すことにします。条件付価値ですね。主観的価値とも言えます。増井さんにとっての佐藤くんの価値は value(佐藤くん | 増井さん) です。これなら増井さんに聞けば佐藤くんの価値が分かります。増井さんにとっては佐藤くんの価値と小西くんの価値は比較できそうですね*1。佐藤くんの「俺と小西くんのどっちが大切なんだ!?」という質問に答えられるわけです。

では,「誰かにとっての価値」ではない価値,つまり最初に挙げた value(X) というのは存在するのでしょうか?ある宝石が10万円で売られているから10万円の価値だというのは,「誰かにとっての価値」ではなさそうですが,妥当ではありそうです。10万円で売っているものは,その価格が適正であれば,15万円では売れないでしょうし,5万円だと店にとっては損なわけです。これは最も高く売れる値段ということですね。ということは,全ての人にとっての価値の中で最大の価値として定義できそうです。数式で書くと value(X) = max value(X | A), ∀A という感じでしょうか*2

では佐藤くんの価値 value(佐藤くん) はというと,max (増井さんにとっての佐藤くんの価値,小西くんにとっての佐藤くんの価値,...,佐藤くんにとっての佐藤くんの価値) という感じになるわけですね。おや。佐藤くんにとっての佐藤くんの価値というと,自分自身ですが,これはたいてい無限大の気がします。みなさん自分が一番大切ですよね。そうすると max を取れば value(だれそれさん) はみんな無限大に発散してしまいます。これは困った。

でも,最大値を取らなければこのアイデアでなんとか価値は定義できそうです。例えばメディアンを取るとか,あるいは一人一人には単に投票権しかなくて,その総和を取るとか。いずれにしても,「集団にとっての」価値という感じがしますね。value(X) = value(X | 全人類) みたいな。個人にとって,ではなく,集団にとって,という条件付の意味で価値を定義することができそうです。そして「集団にとっての価値」は「個人にとっての価値」すべてに対して何らかの統計量を求めることによって定義できそうです。

結局,今までで分かったことは,価値は「誰かにとって」もしくは「集団にとって」として定義することはできる,ということです。個人もしくは社会にとっての主観的価値は定義できる,と言い換えてもいい。絶対的な価値 value(X) は「全人類にとっての価値」という「主観的価値」の総体として考えることができますが,それ以外の方法ではあるものの絶対的な価値を考える方法が僕には思いつきません。逆に言えば,主観的価値をベースにしか議論ができません。

ということで,無駄に長くなりましたが,以下の話では価値とは主観的なものである*3,つまり「誰かにとって」の価値であるわけで,常にその誰かを明示しながら書こうと思います。そうでない価値に意味はないと思いますので。

2. 命の価値

しあわせのかたち - 死への値段のエントリで

私がpartygirlさんのとこのエントリとコメント欄をつらつら読んでまず思ったのは、どうしてハッキリと「命の重さには違いがある」と言う人が、あんまりいないんだろうか、ということだ。

とある。そのid:partygirlさんのhttp://d.hatena.ne.jp/partygirl/20061010には確かに

命の重みは誰しも同じ。
けれど、誰しも一番自分が重い。
この矛盾が真実だから難しい。それしか言えません。

なんて書いてある。割り切って「命の重みは誰しも同じ」と言っているのならいいとして,本当に素直に「命の重みは誰しも同じ」だと考えているのなら,それはどうかと思う(この引用元の人個人を批判しているのではなく,一般論として)。人間の命の重みだとか,命の価値だとか,そんなものが同じだとか,平等だとか,そういう前提をスタートにものを考えるのが矛盾という問題の原因じゃないだろうか。

なんてったって,現実に命の価値は平等じゃない。

僕には絶対に死んで欲しくない人がいるが,死のうが生きようがどうだっていい人もたくさんいる。件のさくらちゃんはどちらかというと後者だ。日本にとって安倍首相は必要な人間だが,いわゆるホームレスの乞食はあまり必要のない人間だ。犯罪者にいたってはいない方がよかったといえる場合さえある。

命の価値には善し悪しがある。これは一般的に価値というものが主観によるものであることからの当然の帰結だ。一般の価値は主観的でそれぞれ異なるのに,命の価値という特定の価値は固定である,なんていうことはない。あらゆる人の命の価値が同値であるというのは,value(Xの命) = value(Xの命 | 全人類) = 定数, ∀X∈全人類 であって*4,これは全人類の総体としてみたらAさんもBさんも全く同様に価値があるということで,そんな大層なことが偶然にも成り立つわけはない*5。全人類でなくて日本や我が家に限っても同様に成り立たない。

だから,もし命の価値が平等であるとするならば,それは人為的に操作されたものだ。

(続く)

*1:とうぜん集合の要素に対して順序関係を定義しなくちゃ比較できるなんてことは言えないんだけど,この話にそんな精密な議論は要らないよね。

*2:∀Aは「あらゆるものに対して」という意味の数学記号。

*3:価値は(量子論で使われるときの意味合いで)非対称なのだ,とも言える。

*4:「∀X∈全人類」は全ての人に対して式が成り立つという意味。

*5:おそらく,これよりも厳しい制約 value(Xの命) = value(Xの命 | 全人類) = value(Xの命 | Y) = 定数, ∀X,Y∈全人類 が適用できて,その場合「僕にとっては具体的にAさんよりもBさんの命の方が価値がある」と主張できるので,成り立たない反例を示すことができる。