Re: 我々は自殺をどう扱うべきか

鬱とかいじめとかと自殺 - alife
Re: 鬱とかいじめとか自殺 - deq blog
我々は自殺をどう扱うべきか - alife

やっとまとまった時間が取れたので返事をします(上記リンクは時系列順に上から)。

前回の僕の文章はどちらかというと,主張(結果)は置いておいて論の組み立て方に大きな問題があるだろうというツッコミでした。今回はまともに「我々は自殺をどう扱うべきか」について真っ向から反論してみます。


我々は自殺をどう扱うべきか - alife

僕は,僕を殺そうとする人を止めてくれることが嬉しいのと同じように,僕が自殺しようとするのを、ただ止めることを嬉しいとは思いません。自殺しようとしていたら、ただ、引き留めるだけの社会に僕は住みたくありません。もし僕の子供が自殺しようとしているなら,何がなんでも止めさせて,手を差し伸べます。もしその場に僕がいなければ,社会がその役割を担ってくれることを望みます。ですが、その役割を十分に担わず、ただ自殺を止めるだけのような行動は全く望んでいません。僕は、社会全体が、一人一人の自殺志願者に十分なアフターケアを果たすことのできる、また、そもそも社会問題に因む自殺自体が起こらないような、そんな社会を作りたいと思います。

僕の主張「(自殺を)まずは止めさせる方がたいていの場合はうまくいくはずです」とhiloshiさんの主張が正反対に異なるのは,おそらく「社会」自体の取り扱い方ではなく,自殺を試みる人(以下,その行動の成功失敗に関わらず「自殺志願者」と呼びます)の(精神状態の)モデル化にあります。なのできっと社会がどうすべきかということを議論しても実のある成果はあまり生まれないでしょう。

hiloshiさんの自殺志願者のモデル化についての言及を拾うと,

鬱とかいじめとかと自殺 - alife

鬱病患者にとっての自殺に関わる本人の意志について、局所的には、彼は彼の脳で彼の手を使いロープを彼の首にかけるなどするわけですから、そこには間違いなく意志が働いています。一方大局的には、彼の精神が何らかの外因によって破壊されているのだから、それは彼本来の意志ではないとも言えるでしょう。

これは捉え方の問題に過ぎません。私は、前者が真実なのだと思います。意志に本来も何もありません。目的を持ち行動する原動力が意志です。ですからこの場合、自殺したいという目的を達成するために、自殺するような行動を起こすものが、彼の意志だと思います。自殺しないような正常な精神で生きたい、という意志は存在しません。それが存在しないから病気だと見なされるはずです。すでにない意志を救おうとしても無意味ではないでしょうか。推測でしか行動できません。救うなら自殺したいと思う前です。精神が破壊されていようといまいと、死にたいと願う人にとっては、その時点では、死ぬことは彼にとってプラスだと考えているはずです。プラスだと思ってるなら、彼にとってはした方が良いのだと思います。ですから、「死にたい奴は死ね」という言葉になるわけです。

我々は自殺をどう扱うべきか - alife

自分が死んだ後に、自分の子供が自殺しようとしているのを、社会を止めること自体は良いことではありません。子供がそれによって自殺を思い留まったとして、それからの彼の人生が良いものになる保障がないからです。だから、「死ぬのをやめろ」と言うなら、それにしっかりと責任を伴わせなければなりません。それはその人のその後の一生に関わる巨大な責任です。

あたりがあります。要約すれば,「自殺志願者はその時点では死ぬことがプラスであると考えているわけだから死ねばよい」ということと,「自殺を止めても良いものになる保障がない」の2点に尽きると思います。

それに対して,僕のモデル化は,長い引用ですが次のようになっています。

Re: 鬱とかいじめとか自殺 - deq blog

人は間違います。僕の今までの経験上,まともな精神状態にないときは,そうでないときと比べて,考えられる選択肢は少なく,それぞれの効用の推定も当たりにくく,さらにその考えの実行も失敗しやすくなります。例えば大勢の人前でのスピーチであがってしまうと,気の利いたジョークも言えなくなったり(選択肢の制限),不必要な細かいことまで喋ってしまって時間を超過してしまったり(効用の推定の間違い),さらに言い間違えたりします(実行の失敗)。まぁ,平静時でも,両思いだと勘違いして告白して振られたり(効用の推定の間違い)するわけですし。

同様に,自殺したい人が「今死ぬのが最大の幸福だ」と自殺の効用を最大値であると推定するからといって,それが当たっているとは限りません。「自殺しない」ことの効用の方がより高い可能性もあります。ですから,死ぬことがプラスだと考えることがあっても,それが本当かどうかは分からない以上,した方が良いとは一概には言えません。自殺というのは不可逆性の非常に高い,あるいは一度行えば代替がきかないような行為ですから,先に他の選択肢を考え,かつそれぞれの選択肢の効用をできるだけきっちりと推定することが重要だと思います。そして,いじめをうけていたり,精神疾患を抱えている場合,(生理学的に)本人の脳がそれをできない状態に陥っているのですから,まずは止めさせる方がたいていの場合はうまくいくはずです。

別の言い方をすれば,自殺をしたいと思っている状態は一種の局所最適解(極大値)に陥っている状態ではないか,という仮定を置くということです。今現在は自殺の効用が最も高いと推定していたとしても,他の選択肢や将来などを考えれば,それよりも高い効用を持つような選択肢が存在する可能性があります。ここで当然その可能性がどの程度存在するのかを定量的に示す必要がありますが,人生それぞれケースバイケースなので一般には何とも言えません。定性的には,「精神的にストレスを受けている場合には (1) 様々な選択肢を考慮する能力が欠如する傾向にある (2) ある選択肢について,実際の効用よりも低めにその効用を推定してしまう傾向にある*1」という仮説がもし成り立つならば,考えられる選択肢の数や未来の数を増やすことができれば(選択肢を増やしても判明している効用の最大値が小さくなることはないので)自殺をしない行動の方がより高い効用を持つと推定する可能性を大きくすることができ,選択肢数nを無限に取れば極限的に「自殺しない方がよいだろう」可能性が1に近づくこと程度は分かります。そして,それは自殺という選択肢が単なる局所最適解であって大域最適解ではないということを意味しています。

局所最適解にはまっている場合,抜け出したければできるだけ大きく揺する必要があります。どれだけ大きく揺すらなければならないかというと,その局所最適解を作っている谷を飛び越えられるだけです。もし谷を越えられなければ結局元に戻りますが,運良く谷を越えられれば別の最適解に向かって登っていけます。そちらの山が大域的な最適解であるという保障はありませんが,少なくとも谷を越えなければ大域最適解に行き着く可能性もありません。

そのためには自殺を止めさせる必要があります。自殺を止めさせることで谷を越えられるわけではありませんし,本当に自殺が大域最適解であれば結局は自殺に転がり込んでいくでしょう。しかし,「たいていの場合」,つまり上述したように自殺が大域最適解ではないような場合,自殺を止めさせることで局所最適解の谷から抜け出す機会を与え,ある程度の時間をおけば「勝手に」自殺の(推定)効用を上回る可能性が高くなります。

で,なぜ「勝手に」よくなるのか。その説明がhiloshiさんの主張「自殺を止めても良いものになる保障がない。」ことへの反論になります。当然ほんとうに自動的に生活が良くなるわけはなく,「絶対確実に」良いものになることを「保障する」ことなんて神ではないのでできるわけがないので,ここで論じなければならないのは平均的に,あるいは高確率でよくなるかどうか,ですよね。僕は自殺を止めればそれなりの確率で(あるいは時間を無限にとれば極限的に確実に)良くなることを主張します。その根拠は「限界効用の逓減」の仮定です(一般に使われている意味での限界効用ではなく,その援用である点に注意してください)。

まず,自殺志願者は悪いことがたくさん起きていると仮定します。全ての自殺志願者がそうだとは思いませんが,たいていの場合には妥当な仮定でしょう。悪いことがたくさん起きている状況では,さらに悪いことが起きても,すでに状況が悪いのでそれほど,すなわち普通の状態でその悪いことが起きたときよりも,悪いとは感じないということが考えられます。悪いことが重なればそれ以上悪いことが起こってもそれほど悲惨には感じなくなる,ということで,その仮説をここでは限界効用が逓減すると表現します*2。その仮説が成り立つという仮定のもとでは,悪いことが起きてもあまりその効用は苦しくなく,良いことが起きたらその効用は通常通り活かされます。従って,極端に悪いことが多く良いことが少ない状態を除けば,それはプラスの効用を持つ状態である,すなわち生きていることが良くなる状態になるということになります。環境が一定でない限り,普通は極端に悪いことばかりは起こりませんから,長期間に渡って「悪いことばかりが起こる状態」を維持しなければ自殺を止めた方が良くなるといえます。逆に言えば,長期間に渡って悪い状態が続かないことを納得させれば,自殺の想定効用を自殺しないという選択の想定効用が上回ります*3

今までの話の主要点を平易にまとめると「今まで悪いことばっかしあったんだから生きてたらそのうち良いことあるよ」ということです。基本的なところはそれ以上でもそれ以下でもありません。ただし,(いろいろ仮説や仮定を使っているので当然それは考慮しなければなりませんが)自殺を止めさせて良くなることに必要な条件は「長期間に渡って悪いことばかりが起こる状態が維持され続けないこと」程度のゆるい制約条件であって,「それはその人のその後の一生に関わる巨大な責任です」というほどの厳しい制約条件ではないと思います。


で…なんか長くなりましたが,以上は「前置き」のつもりです。上の話は言いたい反論ではあるのですが,どちらかというと推論の部分=「公理系からの演繹」なのです。最初に述べたモデル化の重要性という本当に僕がツッコミたい話は幾分違う話で,それはモデル化=「公理系の設定」にあります。特にこの場合,本人(一人一人)の「精神状態と選択のプロセス」(=脳の活動状態)ということをモデル化しなければならないと思います。そうでなければ自殺という本人にとってはものすごく重要な行動は理論的枠組みがナイーブ過ぎて扱えないのではないだろうか,と。それが実はhiloshiさんの話を読んで僕が抱いた一番の違和感だったのですが…。

長くなったので続きはまた後日書きます。あらすじを固めずに文章を書くと話が跳んでいかんなぁ。


追記:そうそう,いじめ問題に関しては,(自殺をやめましょうと言うよりも)

そしてもっと根本的に、「いじめをやめましょう」とも言わなくてはなりません。それが出来ていないのが問題だと私は主張したいのです。

という主張それ自体には僕は賛成ですよ。念のため。

*1:環境(外界)との相互作用が絶たれた状態(閉鎖系)で,一種の思考のネガティブフィードバックによって引き起こされる結果が自殺のような平衡状態であるというような観察も可能ではないかと思う(cf. 熱力学的エントロピーと情報論的エントロピー)。いや,自殺への過程がそれだけだとは思わないけれど。

*2:当然これが一般に成り立つのか,あるいは自殺志願者のような状態の人に成り立つのか,というのは本来検証しなければなりません(もしなされていれば教えてください)。また,悪いことが重なれば(シナジー効果が発揮されて?)その和以上に悪いと感じてしまうようなこともあるかもしれません。このような話は行動経済学や認知経済学といった分野の話題で,心理学,認知科学脳科学の組み合わせ的なアプローチで検証しなければならないような興味深い話だと思います。

*3:ちょっと僕自身も混乱気味ですが,(理論的な=観測不可能な値である)効用を扱うべきなのか,本人の予測する効用を扱うべきなのか,というのがあります。当人の行動はあくまで予測された効用の値に従うので,当人の行動について議論する場合は本来本人が主観的に予測した効用に基づいて行われるべきだと思うのですが,そうすると取り扱いが非常に面倒で難しくなる気がします。